最近は殺人事件が頻発している。 少し前までは殺人事件や凶悪事件が起きようものなら新聞の一面や社会面に大きく取り上げられたものだがこの頃は社会面の一部に報道される程度になってきている。

  それは偏に殺人事件や凶悪犯罪が日常化している証左である。 最近の犯罪の特徴的なのは現金や物を奪うときに平気で殺人を犯すということだ。少し前なら金や物を奪うにしても人命だけは奪わないという不文律が犯罪を犯す側にもあったような気がする。
  しかし、最近の犯罪は人を殺す或いは傷つけることを前提に財物の奪取が行われる。 多数の外国人が日本に渡航し、その中の不心得者が残虐な手口で犯罪を行い、その手口が日本人犯罪者にまで拡散してきているような気がしてならない。 そして特に痛ましいのが何等の罪もない幼児への犯罪行為である。
  最近の奈良県の7歳の女児誘拐殺人事件などは特徴的である。 新聞などに載った識者の意見などを読むと『自分より弱い者しか相手に出来ず、人間として、命ある者としてよりも単なる“物”としか認識出来ない』ような輩がこの種の犯罪を犯すと言う。
  そう言われてみると昨今の風潮は他者の人格や命は勿論のこと、自分の人格や命まで軽々にしか見られない人間が多くなったような気がする。 背景には閉塞した社会観や社会構造、将来の見えない不安や周辺社会の刹那的な風潮があるように思われる。しかし、何よりも欠損しているのは自己を律する心、他者を思いやる心なのではないだろうか。
  少し昔風に言えば道徳観の欠如である。この道徳観の欠如が政治家から官僚、市井の人々にまで及んで来ているのではあるまいか。勿論、言うまでもないが犯罪を犯す人間は大勢の中の一部である。犯罪者は一部には違いないが一歩間違えば犯罪者、の状況に陥る危険性は誰にでもそして何処にでもある。
  道徳と聞くとアナクロニズム的な感覚で嫌悪する向きもあるだろうがそれは違う。前述したように自分を慈しむように他者も慈しみ、他者を厳しい目で見る前に我が身を律する気持を持つ、と言うことが道徳の第一歩なのではないだろうか。
  道徳と言う言葉が嫌なら“思いやり”と言い換えてもよい。要点はとても簡単なことである。『自分がされたら嫌な事は他人にもしない』と言う余りにも当たり前のことなのだから。
  しかし、これが言葉以上に難しい。痛みを伴う改革を言う国のリーダーが国民の本当の痛みを理解できない。国の将来を憂い、国を考えなくてはいけない筈の官僚たちが縄張り意識だけで行動し、国民を蔑ろにして平気でいる。国の将来を担う子供たちを教育する立場の教師がイジメを助長したり、見て見ない振りをする。
 
  書いていくとペンが止まらなくなるのでこの辺にするが、ことほど左様に他者の痛みを我が事にするのは難しい。難しいからこそ思いやりが必要なのだが。 永遠のパラドックスなのかも知れない・・・。