アメリカで卑劣な同時多発テロが起きた。 ご承知のように飛行機を乗っ取り、乗客乗員を道連れに世界貿易センタービルに体当たりし崩壊させた。 この自爆テロで世界各国の国籍を持つ数千人の尊い命が一瞬にして奪われ、救助に向かった消防士・警察官らも犠牲になった。

  アメリカはこれを戦争と呼び報復を宣言した。 世界各国は一部を除き『テロは全世界への挑戦』と表明しアメリカへの支持と理解を示した。 このようなアメリカ及び各国の状況に一部のマスコミ、知識人、文化人などと呼ばれる人達が『報復は何も生まない、テロが繰り返され罪の無い命がまた奪われるだけ。話し合いで解決すべき。』と言う。 そして、テロに至った歴史的側面や宗教的側面が語られる。確かに一面の理はある。 しかし、問答無用の自爆テロを決行するような者たちに“話し合い”が通用するのだろうか。もし、通用する相手だったら今回のような悲劇は起こらなかったのではないだろうか。

  テロも戦争も、そしてテロに関与しているとアメリカから名指しされている首謀者が称える聖戦も尊い命を犠牲にすることだけは間違いのない事実だ。 だが、この世からテロそしてテロリストは壊滅(殺人の意ではない)させなくてはならないのも事実である。 少なくとも日本の一部が唱える“テロに至った”歴史的側面や宗教的側面は決してテロを正当化する理由になる筈もない。 一番気になるのは、これらの発言の多くに『アメリカの報復に支持、理解を示すと日本にも火の粉が降りかかる』という論旨が見られる事である。 これを“一国平和主義”や“平和ボケ”或いは“利己主義”と言うのではあるまいか。 テロ組織があのテロを決行した時点で日本も既に火の粉が降りかかったと認識すべきなのではないだろうか。 とは言え戦争(戦闘)は回避できるなら回避したいのが当然である。 本当なら中東に政治的利害の少ない我が国が調停に入れれば最高かつ最善なのだが小泉首相は只々勇ましく、田中外相は相変わらず蚊帳の外、野党は憲法論争と“何でも反対”、いやはや・・・。